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 ★弥生時代の水田 復元(登呂遺跡)

静岡登呂遺跡には弥生時代の水田跡に水田が一部復元されています。
 ★弥生時代の水田 復元(登呂遺跡)_a0060732_8421613.jpg現在は体験学習として近隣の小学校、市民が参加して赤米などを栽培しています。
 水田跡は、住居跡の東南に幅250m長さ約400mの範囲に約8ヘクタールの水田がつくられていました。南北にのびる水路の西側に一列、東側に4列の水田が並び、これらの外側は沼地になっていたようです。田んぼの面に水をたくわえるために、土地の低い側に矢板を打ち並べ、高い側に杭を打ちこんであぜをまもっています。このように区画された田面の数は約40~50枚あったと考えられています。
 農具も今に伝承される鍬や田下駄などが遺跡から出土しています。
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 当時のイネの栽培技術はまだ未発達でした。それでもイネの種もみを直接水田にまく直播(ちょくはん)法とともに、苗代で育てた苗を田植えで本田に移す移植栽培法も行われていたようです。耕地としては湿田だけでなく、半湿田ないし半乾田も利用されていました。
 収穫の時には、イネの穂先を石包丁で刈り取り、これを天日で乾燥して、高床の倉庫に貯蔵しました。脱穀の時には竪杵(たてぎね)や竪臼(たてうす)が使われていました。基本的に農具は木製で、弥生時代になると鉄製刃先の鎌や鍬(すき)が使われるようになったのです。
 弥生時代前期において水稲栽培は北九州から東海地方まで、急速に伝わりました。水田稲作には、灌漑、収穫、保存、調理・加工技術、灌漑・農耕用の農具が一括して必要でした。
全く新しい技術が短期間に広まったとは考えにくいので、稲作導入以前にも何らかの農耕が縄文時代におこなわれ、その技術をイネ用に転用したのだと考えると、水稲栽培技術の急速な伝播もうまく説明できるのです。
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by pamshide | 2006-04-12 23:40 | 古代の話
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